ダイバーシティ・アンド・インクルージョン

東大のD&I宣言に伴う総長対話。

ダイバーシティインクルージョンをわける考え方良いね。その下でエクイティも保障されることを願う。

 

このセッションに参加する人は既にジェンダーセクシュアリティに興味がある人で、それに意識を向けなくても不利益を被らない人達マジョリティが、無意識にマイノリティが生きづらい世の中を助長している。だから、この対話に参加していない人にこそ知らせるアプローチをかけていく必要がある。

 

性的マイノリティ・ディサビリディの問題は、それが個々人のアイデンティティの根幹をなすものであるが故に基本的人権の問題と言える。

 

東大生には優秀で国を動かす役職に就く人が多い。社会的弱者のことを考えない大学生活を送った人が、将来国民の基本的人権を考えて政策立案をできるはずかない。

 

Eラーニングで不合格者はWiFi使えなくしたりして、学生に考えさせる機会を作るのは良い考えだな。

 

ジェンダーマイノリティとセクシュアルマイノリティの言葉遣いで傷つく人もいるから気をつける。ゲイやレズビアンの支援に偏りがちで、トランスやノンバイナリーの人達は排除されがち。彼等はなりたくてそうなってるわけじゃない。アウティングを防ぐために時間を割かなくてはいけない状況にある。

 

 

期待と不安

東大に合格してから10日以上経ったけど、合格してから大学に入るまでのこの期間の考えをまとめておく。

合格の喜びだけに浸っていられたのは3月10日と11日だけだった。12日に実際にキャンパスに行って、説明会に参加したりサークル看板を見ているうちに、わかってはいたものの所謂「大学受験はゴールじゃない、通過地点にすぎない」ということを体感した。大学の授業が面白そう、難しそう、社会意識が高い人が多そう、このゼミに興味がある、、優秀な人が集まる大学に入ることの期待と不安をたくさん感じた。体育会と担任助手やるなら、大学でもかなり頑張らないといけない。

お泊まりが続いて睡眠時間と暇な時間が減る中で、卒業式の動画作成、合格報告会のパワポ作り、担任助手をやるかを決めてくること、、、一つ一つは大したことないけどやらなきゃいけないことを考えたら「もうやだ!キャパオーバーだよ!」って16日にキツくなった。1日で割と重要なタスクが3つ増えたからそうなるわな。でもそのとき頭に浮かんだのは、東大受験直前、緊張と不安が迫る中、誰もいなくて暗い電気しかない部屋で1人勉強してた自分だった。今までの人生で1番頑張ってたと自分で思える時期。あれくらいやってたんだから、タスクが多くても大変でもなんとかなるんじゃねっていう謎の自信。

 

この日だけに限らず事あるごとに思い出すのは、合格発表を見たときの自分じゃなくて、頑張ってた自分。東大で活動する前の今の段階において、私は東大に合格した事じゃなくて東大を目指して努力したという事に意味があったと思ってる。

東大に合格したっていうその表面的な事実は何も私を変えてない。ここ1−2週間で3回くらい高校の友達と寝泊まりして、みんながどこの大学に行くとかもう一年頑張るとか、大学についての話も多かったけど、皆も私もいい意味で変わってない。こういうことは受かったから言えることだけど、もし不合格だった場合にもう1年東大にこだわる必要はなかったのかもしれないと最近思うようになった。どこの大学に行ってもそれは人生全体を決定するものじゃないはず。

後期の対策期間、チャラチャラ遊んでる人たちの話を聞いて「皆より早く受験勉強を開始して頑張ってきたはずなのに、どうして皆より遅くまで受験勉強しなきゃいけないわけ?あなたたちはもう受験から解放されて程良い大学に行けんの?それっておかしくない?私が頑張ってきたことは報われなかったら何になるの?」って他人と比べて卑屈になってた日もあった。報われて本当によかったけど、もしダメだったとしても頑張ってたことは無意味じゃなくてしっかり自分の糧になったのだろう。

 

自己紹介の時、日本人は「〇〇会社の佐藤です。」というのに対して欧米人は「佐藤です。今は〇〇会社に勤務しています。」ということが多いと本で読んだことがある。日本人は所属意識、集団意識が強い傾向にあるが、どこかに属したところで中身が直接的に変わるのではない。環境の影響を受けるにせよ、どう変わるかは自分次第ですよね。

 

「東大生である=受験勉強ができた」というのは正しいけど、「東大生=仕事ができる、頭がいい」ではないんだよね。頭がいいのと成績がいいのは違うことだし、東大に合格したことは人間的に優れていることを意味しない。日本では東大生に対して過度な期待や先入観が強いと思う。良くも悪くも学歴社会、、ある程度学歴は信頼できるものだと思うけど、学歴で語れるもんなんてほんの一部だろ。

東大の担任助手2人が前に「東大って言ったら高校生に畏怖されることあるけど、え、どうしよってなって本当に困る。」「東大生ってだけで周りの大人に期待されてプレッシャーを感じることが多い」ってそれぞれ言ってた。合格する前はわからなかったけど、それがもう既に理解できてしまう。

学校の関わりが少なかった先生から「まさか東大に受かるとはね。あなたがこれからどう生きていくか注目されるだろうから頑張ってね」みたいなことを言われ、嬉しい反面いやそんなプレッシャーかけんなよって思った。塾で残って報告会準備の作業してたら校舎長に「さすがだね」的なことを言われ、釈然としなかった。

ヤンキーが捨て猫を拾ったら驚かれ誉められるけど、生徒会長が同じことをしても流石って言われるだけ。これ社会心理学でナントカ窓効果みたいな名前あったなーー

東大に合格したから優秀だろうみたいな前提やめてほしい。私の場合は東大に合格したのは元々優秀だからじゃなくてただ頑張っただけなんだよ。その努力も知らずに東大生っていう名目だけで判断されるのは嫌だ。私もそう考えてしまうことあるから仕方ないことだけど。東大に入ったからこそ得られるものはたくさんあるだろうからそれを享受したい。物事メリットデメリットあるよね。

 

あと、大学でできる友達って高校ほど親密じゃない、ほぼ1人みたいな感じって話はよく聞くので、知り合いがほぼいない私は心配な限り。

この期間で考えたことをまとまりなくダラダラと書いたけど、まあ

なるようになるさ。

 

世界史塾消えるから貼っとく

~どうしてこうも全く反対のことを言う人がたくさんいるんだろう。

でも、たくさん講演をさせてもらって、たくさんの方の反応を見ていて何となくわかってきた。

きっと、「死ぬ気で何かを頑張った」ことがある人と、そうでない人。

この違いなんじゃないかって、思ったんだ。

勉強でも、スポーツでも、音楽でも何でも、死ぬ気で何かを頑張った経験がある人は、それなりに結果も出して、それで自分のステージを上げてる。

こういう人たちは知ってる。奇跡なんかじゃない。

ちゃんとそこには、血のにじむ努力があったし、それに対してのまっとうな結果が、ちゃんと出ただけだってことを。~

「死ぬ気で何かを頑張るっていう経験をする。その経験こそが、君の一生の宝になるんだよ。そういう経験を持ってる人は、大丈夫。どこに行っても、大丈夫だ」

さやかさんは、坪田塾長からこう言われていました。

人生の中で最も大切な真理なのではないかと思います。

死ぬ気で努力する経験をすることで、どんな逆境にも負けないようになる。

そして、人の可能性をどこまでも信じられるようになる。

そういう最も大切なことを受験勉強を通して経験しているのだと思います。

 

自知、自信、努力

昨日共通テスト模試があって、今日復習をして考えたこと。読み返して論理の飛躍と話の混ざり具合が酷いなあって思ったけど直すの面倒なのでそのまま、、

私は先週くらいから「東大受験ノート」というものを書きはじめた。受験勉強の最中でしか感じないであろうことや模試の振り返りを書いている。裏表紙に担任助手に書いてもらったメッセージがあることで頑張れてるので既に大切な物になってる。それで今日もその手帳にそれぞれの科目の感触とかミスした点出来なかった点、じゃあどうすればいいのかっていうことを書いていた時、不意に自信が湧いてきた。何故か?

ここをこう改善すれば自分は必ず点数を伸ばすことができると確信したからだ。自己分析って、先の勉強計画を立てるのに役立つだけではなくて、自信を持つことにも繋がるものなんだって発見した!自己分析は自分の弱い部分に向き合わなくちゃいけないから正直気が進むものではなかったけど、今日からは自己分析を楽しくやれそうだ。

 

そして、これは受験だけの事ではないだろう。今は、合格点に辿り着くためには何が近道なんだろうって考えているだけだが、人生においてそれぞれ自分の理想像があるだろう(ぼんやりとでも)。現時点の自分が完璧だと思い自信に満ち溢れている人は滅多にいない。自信がないのは、それに関して自分に足りない部分があるから。逆に。自分にはこれができるってわかっている部分では自信を持てる。

 

自信を持つことの根底にあるのは自己分析である。自己分析をしなければ、自分が何が得意なのかわからない。わからなければ自信は持てない。また不得意な分野でも、今の自分は理想像と比べて何が足りないのか、その隙間を埋めるためにはどうすればいいのか。それを考えることで、「こうやって行動していけば必ず理想像に近づける」という自信が生まれる。ゴールが見えなくてもまだまだ遠くでも、自分が目標に近づいているという感覚こそが進み続ける原動力になるのだ。

 

「努力に裏付けられた自信」は、自分がこれだけ努力してきたんだから大丈夫、やれる、そう思うこと。この言葉はありきたりだが、「自信に裏付けられた努力」というのも在るのではないだろうか。例えば。私が毎日勉強しているのは、東大に受かるという自信が存在するからで、はじめから0%だと思ってたら受験勉強なんてしない。不安になった時も心のどこかに「もしかしたら合格できるかもしれない」という希望や自信があるから、勉強し続けるんだ。努力を継続するためには自信が必要だということを言いたい。努力しないと自信が得られないのも確かだから、要は努力と自信は相互依存ってわけだ。そして先に述べたように自信を持つためには自己分析が肝要である。

 

自分を知りたい、その欲求はある部分で自信を持ちたいという欲求なのかもしれない。

自然と共に生きる

自分の好きなことをする余裕がなく、生きるためだけに働くこともあるだろう。でも、その場合何のために生きてるの?何でそこまでして生きたいの?やっぱり目標かなあ。目標があればこの辛い状況も目標達成への過程で、ゴールに近づいているって感じられれば生きられるかもしれないが、、達成が絶望的になった時に生きる理由がなくなってしまう。今は東大合格という明確な目標があるけど、それが終わったら私の目標は何だろう?


そんなことを考えながら吉祥寺駅周辺を歩いていた時。人が多い場所で、私は割と歩いている人を観察してしまう。だから1人で歩く人混みは好きじゃない、誰かと一緒なら周りに関心持たないから気にならないけど。後ろから聞こえる会話も聞いて色々想像してしまうし、2人の関係性はどんなものなのか予想してしまう。これってすごい疲れるんだよね、当たり前だけど。見た人の表情が疲れ切っていたり眉間に皺を寄せたりしていると私まで疲れて、でも半分くらいの人は良い表情してないもんだなって感じる。誰かと歩いている人は良い表情の人が多いけど、その人たちも1人になったらああいう顔をするのだろうか。多くの人が1人で生きることには疲れているのだろうか。ああ、もう誰の顔も見たくないなって思って空を見上げると、雲が薄らと在る青空を白い鳥達が飛んでいくのが見えた。少なくとも私は、目標とか思考じゃなくて、こういう自然で感覚的なものに知らぬ間に生きる意味を見出しているのかもしれない。都市の喧騒からの逃げ道は自然にある。上を見上げれば誰もいない、無限に広がる空間。自然と触れ合える場所に行きたい。そして、ずっと上を見ていたら人とぶつかってしまうけれど、あなたにもあなたを救ってくれる広大な自然があるんだよ、と私は声を大にして言いたい。

出会いと愛

10年前に出会ってる人より最近出会った人の方が心開けて深い話できることなんて無数にあるけど、あるからこそ、質の方が大事だ考えてた。でも、比較的最近に出会って深い関係になれた気がしていた時に自分が知らない過去のその人の手記を見せられると、自分が知らない時代の彼(以下、三人称は「その人」じゃなくて「彼」で書く。性別指定してないけど。てか英語でも日本語でも、一般的に性別を特定しない三人称ないのは不便。いちいちhe or sheと書くのは面倒だ!he or sheが生まれる前は全てheで纏めててそれが男性優位社会の象徴だとかで変わったらしい。人類をmanと言うのも馬鹿げている。すみません長くなりました)がいることが悲しくて過去の彼を知っている人が羨ましくなる。この青くて広い世界で無数に散らばった中から別々に生まれた2人の人間が引き合わせられることさえ奇跡だけど、もっと前から出会えれば良かったのに、もっと青臭くて素直な彼を、成長していく彼を隣で見ていたかったと欲張りにも思ってしまうこともある。

一期一会って月並みの言葉だけど人間の本質をついてる。生きていく上で出会えて良かったと思う人が増えていくほどこの言葉が身に染みる。その事に気付いたのは強い憧れをある人に抱いたまま別れて会えなくなってから。どんなに別れが辛くても、時間が経てば気持ちは薄れて唯の思い出に昇華される。持論だけど、人間の感情で最もはかないものは恋愛感情。ピーク時には他のどの感情よりも強くて脳を支配してるのに、何かがきっかけで一度消えれば当時の自分を客観的に冷静に見て引いてしまう。何であんなに好きだったんだろうって後から考えてもわからない。憧れや尊敬は簡単には消えない(少なくとも2年間は)し思い出せるけど、昔好きだった人に再会しても何も思い出せないことがある。

 

 

自分好きだった人が好意に値する人間だったのかどうかは熱が冷めてからじゃないと判断出来ない。追いかけてばかりでは見えない。1人の人間として対等に向き合って初めてわかる。彼の人間性が素晴らしい場合、恋愛感情(が何を意味するのか知らないので使うのが憚られるけど、まあ度し難い想い的な?)がなくなっても人として好きなままで大切な人であるのは変わらないし、なお特別。対照的に、熱が冷めて自分が夢中になってた人がちょっと人間性がよくなかった事に気づくこともある。

 

 

もし時間が経てばどんな感情も消えてしまうのなら、時間が全て解決するなら、私には何が残ってるんだろう。時間が経っても私が私であり続ける所以は?細胞も感情も変わるなら、何が私?脳?心?細胞が変わってもココロは身体の中の空間に浮かび続けているのかな。私の脳に一番今までの自分の積み上げてきたことが詰まってるけど、脳死したら私は存在しないの?身体が動かなくなったら魂は心は消えてしまうのかな。これまでに生命を得たもののそれらが在り続けてるのも怖いが、死が全ての終わりならなぜ生きているのか?(この文章は模試前に書いたもので、模試の円環的な時間感覚の文章で少し考えが変わったような、、)私が生きている間に何かを感じた事実は消えない。生きてて良かったと思う時があるのも事実。生きていないと感じれないことは確実にある。愛。

 

孤独があるからぬくもりを温かく感じられるように、人生でも辛い時があるから楽しい時に心から楽しいと思える。ずっと楽しかったらそれが当たり前になってしまう。この模試が異常に詰まってるキツイ期間にそう悟った。今はきついけどいつかそれ相応の良いことがあると信じて私は明日も生きます。 逸れたのでもどります。

 

人間は孤独だから愛を感じられるんだ。

 

人は「不死」を求めている。

人間にとって「不死」とは「産み続けること」である。その「不死=出産」のために愛が存在するのである。

 

 

こういう考え方もあるけど、もの哀しい。愛の存在理由なんてなくていい、知らなくていい。

愛があるだけで幸せだから、生きる理由になるから。

 

結衣 

うん。そう。私と絆はこんな変な法律がなくて、性別とかも関係なくて、好きな人のそばに、好きなだけいれるような世界でもう一度出会うの。それでね、寒い雪の日には二人で寒いねって言い合って、手を繋ぎながら歩くの、あとはね、嬉しいこととか悲しいことがあったら1番に絆にギュッてしてもらうの、、、

 

絆 、、そうだね。私たちはさ、ただ 好きな人と一緒にいたかっただけなのにね。

 

そうだね。きっとそうなるよ。好きな人と一緒に入れる世界で、私と結衣はもう一度出会える。

 

(友達が書いた劇の脚本から引用)

 

愛は当たり前の何気ないことを鮮やかに彩る。好きな人のそばにいるだけで本当に本当に幸せで、その世界を生きるだけで幸せなんだよ、きっとね

 

ブルーを隠すこと

山口路子さんの「サガンの言葉」という、フランソワーズ・サガンの名言が詰まっている本を買って読んだ。

嫉妬している人はそれを隠すべきです。最低限の礼節だと思います。

 

誰にだって嫉妬の感情を抱いてしまうことはあるけど、嫉妬の感情は当然、と開き直る人をサガンは避けていたらしい。今回私が書きたいのは嫉妬の話とは少し違う。前から頭に残ってたこととサガンの言葉と今日聞いた話が急につながって書きたくなったのです。人間の明るさのことについて。

 

どんなに辛くても家で泣いてても勝手に涙が出てくるほど追い込まれていても、学校に来て友達に会うと楽しそうに話して周りの子を元気にしてる子がいた。あなたが周りを明るくしてその明るさがあなたを元気にしてるんだっていうのはずっと思ってたから、そこまで精神的に辛い時にも周りを明るくできるその子を尊敬した。心配は言わずもがな。

 

反対に、「あの子の存在が全体の空気を悪くしてる」というかなりショッキングな言葉を聞いて、「あ、そういう影響を周りに与えちゃうこともあるんだ、怖いな」と思って、サガンの言葉も相まって今日決心したこと。↓

 

ちょっと落ち込んで暗い気分になっても、集団の前ではそれを出さない。笑顔でいる。自分が笑顔でいれば周りも笑顔になりやすいし、それが結局自分の心からの笑顔につながる。これは経験からもそう、何か辛いことがあっても友達と話して笑ったらそれをいつの間にか忘れてる。

もちろん心がズタボロの時に無理に明るく振る舞えとは言わないけど、日々の中で上がり下がりはある、そのちょっとしたマイナスは隠せる程度だから出さないようにしよう。少し話外れるけど、生理の時ああこれからしばらくブルーな日だ、、って決めつけるんじゃなくてただ体のことで、長く寝るとか泣くのを我慢しないとかそういう意味で甘くなろう。気分が落ち込むと思うと余計に生理が辛くなることに先週気づいた。

 

隠せる負の感情を隠さないのは怠慢だって本のどこかに書いてあった。

相談事は基本的に一対一でするもので、どうせ大人数で悩みを打ち明ける場ではないなら、陰鬱を醸し出しても何の意味もない、周りにいる人も気をつかうし全体の気分が上がらないし自分も楽しめない!頼れる人と2人になった時に弱さを曝け出せばいい。お互いに。そういう相手を大事にすればいい。周りの幸せのためにも、自分の幸せのためにも。

 

この投稿は宣言という意味でもある。今日から、些細な落ち込みは人と接する時は表に出さないよう努力しよう。明るくなれなくてもせめて暗さは出さないようにしよう。(自分へ、本当に辛い時は無理しなくていいんだよ)

頑張らないと得られないもの

まずは、「性別なんて超越するものよ」の発言者である東大生担任助手の言葉を引用させて戴きます(許可済み)

 

 

 

「去年の9月を思い出せるか、と問われたらどう答えるだろう。

そのころよく聴いていた音楽や金木犀の香りは去年の秋を私に思い出させるけれど、私に受験勉強の内容を思い出させるものは何もない。

単元ジャンル別演習について生徒の皆さんに実体験を交えてお話しするために、当時のノートを見返していた。ああ、こんなことを勉強していたんだなと、少しだけ思い出す。その時解けた問題が今解けるかと言われたら、大体は解けなくなっているだろう。力は、使っていないと、衰えて消えてしまう。

でも、消えていないものがある。

みんなができるのに自分にはできないことがどうしようもなくあるなあとわかったときの気持ち、勉強が思うようにできなくて泣いていた小学校の頃のクラスメイトの気持ちが腑におちた感覚、落ち込んだ時に優しくしてもらった記憶。

受験がどのようなものかは人によって違うと思う。私にとっての受験は、勉強が得意になるイベントではない。

受験期を振り返って思い出せることが何なのかで、それはわかる。

無心で勉強することができたらきっとはかどる。考え事だけで何時間も費やしてしまうのはあまりおすすめできない。でも、何か思うことがあるひとはそれを無視しないで良いと思う。受験という追い込まれる状況だからこそ感じ取れることがある。それを自分や他人を理解する助けにできたらいい。ひとを好きになるきっかけにできたらいい。私はそう思う。」

 

 

 

引用は以上。

私はかなり考え事をする方だと思うし、特に受験勉強するようになってからそれは増えた。今回は頑張った時にしか得られないものについて書く。受験により物のあはれも知らずなり行くなんあさましき。

 

昨日と今日で頑張ったからこそ得られたものは、朝のおいしい空気ときれいな空ときれいな夜景。

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写真だと見劣りするけど、朝頑張って早起きした私、9時半まで塾で頑張った私にとってはどちらも最高の景色だった。夜景に関しては野田洋次郎の声を聞きながら見ると飽和感がすごい。空って本当にすごい。私の最近の毎日の楽しみは、朝の空と学校から塾に行くまでの空。青空の5割くらい雲があるのが好き。サングラスをかけて見ると、眩しくて見えてなかったような太陽が背後に隠れてる雲の陰の美しさを発見できて、とにかく雲の濃淡が明瞭になって綺麗なの!どんなに都会でも狭苦しくても住宅でゴチャゴチャしてて嫌だなって思っても、空だけはとにかく広大で無限大だから自分が広大な土地に来たような感覚になれる。日光を気にせずに空を見上げると、壮大すぎて毎日空を見てるのに、時に「うわあああーー」って独り言が出ちゃう(笑)上を向くと声が出やすくなるのもあるだろう。上を向くと物理的に笑顔になるんだよね、やってみればわかるけど上を向いて笑顔になるのと下を向いて笑顔になるのじゃ全く必要な力が違う、てことに空を見始めてから気づいた。空を呆然と見上げてる時は地上での悩みなんて全く考えないしそれがちっぽけな物に思える。人間、空を見れてる時は大丈夫だ。だから毎日空を見ることで、すべての心の混沌を忘れ壮大な気持ちになると同時に、自分が大丈夫だということを証しているのかもしれない。

 

長々と空の魅力について書いてしまった。でも本当に、「みんなスマホ見てないで空を見ようぜ!」って思います。電車で大勢がスマホを見ている光景も嫌い。本を読んでる人を見ると嬉しくなる。そんなことで嬉しくなる、おかしな時代。デジタル化についてはまた今度書こうかな。

 

頑張らない得られない物についての話に戻ると、達成感だよねやっぱり。数学の問題を解けた時にシャッて丸つける時の感覚は何物にも替え難いものがある。世界史の知識が横で繋がった時の感覚も。私っていう人間はとても単純なので、できたら楽しくてできなかったら嫌になって、頑張れば結果がいつか出る勉強の単純さとの共通性があるのかもしれない。高2の時に先生から「〇〇さんは勉強が性に合ってるんでしょうね、楽しんでるように見えます」みたいな事を言われて合点してなかったけど最近そうかもしれないと思ってる。ただ精神年齢が低いんだろうな。球技大会の動画見たら一回一回跳ねて喜んでて小さい子供みたい〜って思った笑笑

体を動かしてる時の私と、勉強したり考え込んだりしてる私とは自分でも違うなって感じる、精神年齢の落差がすごい。前者は友達から「まじで小学生男子だね」って言われるのに対し、後者の私は「達観してるね、大人びてるね」って言われるし自認してる。でもどちらも私だから。私はおそらく平均よりも自己の中が多様で、範囲が広くて、端と端を持ってきたら本当に同一人物ですか?ってくらいに違う。誰といるか、どこにいるか、話題は何か、そういう条件によって出てくる自分が違う。いろんな自分がいるけどこの自分でいる時は落ち着くなぁというものはやはりあって、大人のように振る舞って淡白で真面目な自分よりも、小さい子のようにに無邪気で甘えたがりで運動が好きな自分でいる時が1番落ち着くかな。結局大人になれてない証なんだけど!

興味の範囲が広かったり色々な自分がいることで、こっちだけの私だったら関わってなかったであろう友達と出会えたりして良いことも多いし、こんな両極端な楽しみ知ってる人は少ないでしょ!と思うほど多様な楽しさを知れることが自己の範囲が広い私の長所だと思ってる。

 

あ!今気づいた!私が今まで年上の人に惹かれてきたのは、"小さい子のようにに無邪気で甘えたがり"な自分を出しやすいからだと思う。ひとを好きになる時って、相手の人間性で好きになることもあるけど、自分がその人といると落ち着くなあって思って好きになることもあるんじゃないかな。何故私が好きになるのは年上ばかりなのか疑問だったのでスッキリした!

 

 

以上のことは受験勉強をしてきて、ゾーンに入ってる時の自分の集中力に驚いたり、頑張る時とダラける時の落差ひどいなあとか思ったりして気づいたことだから、頑張ったからこそ得られたものの1つと言えるだろう。もう一つ、一昨日くらいに気づいたことが。前回のブログで性について書いたけど、日本は性に関しては発展途上国だからか、知りたいことを調べても見たことあるサイトしか出てこないしあまり役に立たなかったの。でも英語で調べてみたら性に関して進んでる国の現状が詳細に書かれていて、私に刺さる言葉を書いてくれていた記事もあった。学ぶことは自由になることだってドラゴン桜の言葉にあるけどこの経験もそれなのかもしれない。英語を勉強してなかったら読めなかったから。残しときたいので貼っとく。セクシュアリティについて悩んだ経験のある女性の言葉。

 

 

Sexuality is more than a spectrum or a gay-straight binary with bi firmly in the middle. There are a bajillion places being a girl who likes a girl might lead. You could realize you're 100% only into girls, but it might also mean you like kissing girls but really want a relationship with guys, or maybe it means something else entirely. The possibilities are truly endless.As 19-year-old Isabela Villareal explains, "I identify as queer because I believe sexuality is a fluid concept. While I might fall for a woman now, I may develop a crush on a trans man some day. My sexuality and attraction to people doesn't rely on gender." But remember: Identification isn't for everyone, and there's no need to rush. "Labeling is more harmful than helpful to me because I'm so new to this," says 20-year old Naomi Waltengus. "I'm hesitant to give myself a label that might not fit. I don't want people questioning me or asking me to prove myself."

 

 

 

なんかあちこちに話飛んで纏まりませんね。今日井の頭公園にお昼食べに行ったらほぼ全世代の人間がいて思いました

「ああ、受験生、勉強に没頭できる時期って人生のうちで本当に今しかなくて短くてかけがえのない時間なんだな。あと5ヶ月しかないのか、少し悲しい、残りの5ヶ月で受験でしか得られないものいっぱい見つけたいし、終わった時にやりきったと思えるような努力を最後までしたい」と。モチベが高まってきたのでまた1週間頑張ろうと思う。