特性への名付け 

大勢がいる場所で自分の聞きたい声が聞き取れず、聞こえないまま会話が進んでいく。

生理的に無理で、頑張ろうと思っても優しくなれない。

狭い空間にいると、叫んで逃げ出したくなる。

 

今までも、驚かされて異常に驚嘆して逆に驚かれたり、怖いものが本当に無理だったり、自然がすごく好きだったり、すぐに涙が出たり、小さな事に幸せを見出せたり、相対的に人より考え事が多そうだったり、そういうことはあった。けれど、そんなに不自由していなかった。

 

生理的に無理なものは本当に無理。無理な相手に対しては、人間でも時に払い除けたい虫のように感じられてしまう。自分に向けられていない悪意まで感じ取って苦しくなる、その空間から逃げ出したくなる…最近、はじめに書いたようなことが多くて困っている。

 

自分の感覚を他の人にそれを相談したら親身になって聞いてくれたけれど、感覚がおかしいとも言われた。自分でもおかしいと思う。過剰すぎる。自分では過剰になりたくなくても過剰になってしまう。生きづらくしてると思うよ、その感覚が。

 

HSP(Highly Sensitive Person)という名称を知ったのは大学に入ってからだった。知った頃は、自分に当てはまる項目が多いなと思いつつも大して気に留めていなかった。でも自分と他の人たちの感覚の違いを強く体感する期間があり、昨日改めてネットにあるやつで検査してみたら、いくつかやった検査の全てでHSPであると思われるという結果が出た。まあそうだろうなという感じだった。

 

自分は、HSPという単語をどう扱えばいいだろうか。「HSPは障害ではなく特質を表す言葉にすぎない」、それはわかっている。名前をつけることがいいのか悪いのかは、大学に入ってからずっと考えてきたことだった。HSPとは別に、自分のアイデンティティに名前をつけるかつけないか、つけられるのが嫌かどうか。用語がないとそもそも問題を問題として当事者すら認識できなくなってしまい、その問題や排除を訴える術を無くしてしまうのは間違いない。だけど、〇〇の人たちは〜ってまとめられたり、一括りにされたり、何よりそれが「〇〇の問題」などと社会問題のように扱われることへの抵抗感は少なからずあった(社会問題は確かにあるんだけど、自分が社会から異物として対象化されているのことへの抵抗感)。まあ、まとめればアイデンティティ・ポリティクスのメリットデメリット、みたいなところの話だろう。

 

何かの性質を有徴化することで、それが「普通」でないと定義づけられること。これに対してどう向き合えばいいんだろう。自分が、俗に言うHSPに当てはまるのかもしれないと知った時に感じたことは?

他にもこういう人がいるんだ。ああ自分が今まで形もなくモヤモヤ感じてきた違和感は、こういうことだったんだ。(HSPの特徴を読んで)そうそう、そうなんだよ…と、自分はこれなんだ、と名づけることでホッとした部分がある。

一方で、ネットで「HSPの人は〜」という型の文章を何度も見かけて、いやHSPでくくるなよ主語デカすぎだろ、私はそうじゃない。と、括られることへの嫌悪感もあった。ASDHSPもグラデーションなんだから当たり前なんだけどさ。さらに、自分はHSPなんだと思うことで、自分はこういう性質を持って生まれてしまったから生きづらいんだ、これから生きるの大変だなあと悲観的にもなった。

 

自分の生きづらさの原因をいつも探している気がする。そのために学問をしようとしている。

私はそれは正しいと思っている。人間の生きづらさはその人に原因があるのではなく社会に原因があるなんてことは沢山あって、その社会を変えたいという思いはずっとあって、だから社会学に興味が出て…でも、例えば障害の社会モデルだって、社会が悪いねって言ったってじゃあ今当事者はどうすればいいんだよ絶対に所謂「健常者」と違う部分は内部にあるんだしってわけで、確かに医療モデルの側面も必要なわけで、、、そしたらICFモデルがいいのか社会モデルを発展させていくのがいいのか?社会的な概念を作るということは、よりアブノーマルで「変」な生き方をしている人を強烈に排除する事になるから、クリップやクィアだってアンチソーシャルから生まれた。だから社会学を学ぶことがクリップやクィアへの興味にどう働くのかまだわからないし不安な部分もあるけど、社会学を学ばないとアンチソーシャルなんでできないわけで。なんか進路の迷いに話が飛んでしまった。今回かなり殴り書きですね。

 

とりあえず私は、HSPという名称にとらわれないで、一旦自分から引き離して生活してみようと思う。感受性が豊かとか、想像力があるとか、いい部分もあるんだから、ただ自分の個性として考えてみたい。