赦しについて

「赦し」について、3人の思想家の考えをみてみよう。

 

ハンナ・アーレントのキーワードは「活動」である。

『人間の条件』において、人間の広い意味での活動には3つの層があるとした。労働、仕事、活動。活動こそ本来の人間的活動であり、その典型は政治である。

その活動には二つの不可避な欠点がある。活動の結果は無かったことにできないという不可逆性と、活動の結果を予測することはできないという不可予言性である。不可逆性の救済策が「赦し」であり、不可予言性の救済策が「約束」だ。アーレント曰く、赦しと罰は、報復の応酬を止めるという点で同じ(罰は赦しの代替物)であり、復讐の概念と対立する。アーレントは、イエスに関しても宗教的な面ではなく、世俗的視点で注目した。イエスのいう自由は、復讐からの自由であると。人間の活動において罪は日常的な出来事であり、赦しという行為があるからこそ人間は生活できるため、赦しの義務があるとした。

アーレントは、『全体主義の起源』の中で政治が無用なものとなったときに全体主義が生じるとし、人間の活動を無力にする、赦すことができない罪だとした。ナチスホロコーストは人間の理解の範疇を超えており、それゆえに人間は赦すことができない。

しかしアーレントは、アイヒマンの裁判については罰を正当化しており、そこに矛盾があるように思われる。

また、アーレントは赦し得ないものはどこまでも赦し得ないとし、その点においてデリダから「赦すという恋がトートロジー以上の意味を持っていない」と批判されるのだが、それは後述する。

 

次にウラジミール・ジャンケレヴィッチをみてみる。彼は、忘却と赦しの類似点を説いた。忘却が生じるのは軽薄な心のせいだといい、時効は忘却を法的・公的に規範化・正当化させるとした。彼はドイツの時効論争の際、時効に反対した。記憶の義務があり、起こったことを強く感じてルサンチマンを持つことが起こったことへの誠実な態度なのだと。

ジャンケレヴィッチは、赦しの全能性を唱えた。アーレントのいうinexcusableなものも、forgiveできる。罪の動機が理解できなくとも、それを赦すのがforgivenessなのだと。彼は、許しえないものinexcusableはあるが、赦しえないものunforgivableはないとした。赦しがたい悪を赦してこそ真の赦しだ。ただし、最低限の条件がある。

それは、加害者が赦しを乞うていることである。『われわれは赦しを乞う声を聞いたか』の中で彼は、悲嘆とみなされた状態が赦しが可能になる存在で、豊かな人を赦すなんて悪い冗談である、としている。また、第三者には赦す権利はない。ホロコーストにおいては、死者はもう赦すことができないのでホロコーストに赦しはない、つまり「死の収容所で赦しは死んだ。」のである。

 

最後に、ジャック・デリダへいこう。デリダのキーワードは「シークレット」。

デリダは、赦しはただ赦しえないもののみを赦すと考えた。赦しは、それが不可能に思われるとき初めて可能になり、「赦しの歴史は反対に、赦しえないものとともに始まる」。彼は、手段ではなくそれ自体としての赦しに注目した。ジャンケレヴィッチが言うような条件付きの赦しではなく、純粋で無条件の赦しを。国際平和のためといったエコロジー的な商取引ではない。仮言的用法ではなく、定言的用法としての赦しを。無条件の赦しは「不可能なものの狂気」でありわたしたちの赦す能力を超えていて、実際に現前することはありえず、それが現前するためには何らかの条件が否応なくついてきてしまう。しかし条件付きの赦しは、それら全てが純粋で無条件的な赦しの概念に準拠していることは決して忘れてはならない。その意味で、条件付きの赦しと無条件の赦しは分離不可であり、全く異質なものなのである。

ここで、赦しえないものを赦すのが赦しなら、赦しえないものは存在しないのではないかと言う意見が出るだろうが、デリダ曰く、そこでの赦しは「秘密」「シークレット」にとどまる。あくまでも赦しは異常である。正常化のためであってはならない、正常であってはならないのだ。

無条件の赦しは、人間の行為としての赦しではありえない。しかし、イムマヌエル、god with usにおいては…人は自分で生まれたわけじゃない。気づいた時に存在し始めており、生き延びている事実が肯定されている・容認されている。生かされていて、そこに根本的な受動性がある。ヒトラーでさえも、生きている限り、無条件の赦しで神によって生かされているのだと。

 

 

以上、3人の「赦し」についての思想を見てきた上で、私自身の考えをまとめてみたい。いやそんな時間は今ないからただただつらつらとかく。

・第三者は許せない。神であっても。

私は今まで、赦しとは忘却と似ていると思っていた。赦すことで、無かったことにしようという感覚。でも、無かったことになんてできない。赦すとは、誰が、何を、赦すのか?という問いに対しては、被害者が、加害者のために加害行為を赦すことである。本当にそうなのか?赦しがキリスト教的なものと結びついている感覚。第三者は許せないと思う、神であっても。まだ自分が赦していない段階で神が加害者を赦していた時、自分は取り残されてしまう。私はアーレントの意見に近いと思う。理解・共感できないために赦せないという感覚。アーレントに対して、「むしろ理解・共感できないからこそ許しが必要なのではないか」という意見があるだろうが、そこまでして赦すべきなのだろうか、赦しは必要なのだろうかと疑問に感じる。

ただ、やはり赦すとは、楽になることでもあると部分的には思う。赦すことで、自分なりに自分の苦しみに区切りをつけられる気がする、前を向ける気がする。赦すという行為は、誰のためにあるのだろうか。

てことで私はテストを受けにいかないといけないので、ここで締めます。