カフカ

ネガティブでいてもいいじゃない

 

何も世の中の不条理を知らず、また見て見ぬふりをして、生きていけたら、もっと楽なのかなとか、

でも私の心が動くのは、そういう痛みを知っている人、想像しようとする人達の言葉や作品で、今の私がそうであるということは変えられないし、受け入れるものなのだ。

そしてそういう私が自然体でいられる人や世界観も存在しているのである。それは表立っていないかもしれない、この社会の1番のメインストリームじゃないかもしれない、それでも確実に存在しているのである。この世界の、どこかに。

 

カフカが好きだ。amazarashiが好きだ。人生のどこかのタイミングで、これでもかというくらいネガティブな人や絶望に向き合った人間が生み出す何かに、救われることがある。どんな人でもそういう瞬間はきっとある。

ならどうして、人はポジティブであることをよしとするのだろう。人を陽と隠に分けて、陽を上みたいにするのだろう。

 

私にとっては、その人がどれだけ人の痛みを想像しようとするのか、がすごく大事だから

 

 

どうして絶望したことや、嫌なことを、あれがあったから成長したって

成長の物語に乗せないといけないんだろう、乗せようとしてしまう引力があるのだろう。トラウマ、病気、そういうものは、時にまっすぐな時間性にのらない。乗り越えたと思っても、まだ過去に縛られていることに気づいたり、忘れていたことを突然思い出させる瞬間があったり、。そうして時に現在から未来ではなく、過去に身体の時間性が戻ってしまうことがある。

 

カフカの本の前書きに、こういう言葉がある。

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

 

・トラウマ

つらいことがあったけど、それを乗り越えて、学びを得た。と言いたくて。だってそうじゃないと人生のなかで無駄というかただマイナスの時間があった、みたいになってしまうから。例えば事故や病気なら、その経験で何かを得ないとしたら、どうして自分だけが被らないといけないのか、説明がつかない。あらゆる出来事に意味を付けたくて、けど大体のことってきっと何の意味もなく自然に起こっていることなのよね。(これは仏教観に近いか。神がいると考えていたら、また違う捉え方か。)

(ここクィアな時間性と似てるな、、)

でも、つらかったことはつらかったことで、存在していて、それはただ、人生のその時期に起こった。というだけで、というだけで、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。

 

・弱くてもいい

強くいようとしたり、弱さを乗り越えて成長物語に仕立て上げたり、

強いね、というのは褒め言葉なのだろううか。弱くてもいいんだよ、と言ってくれることの方が、よっぽど救いじゃないか。大丈夫じゃなくていい、大丈夫なわけない、強さと弱さが同じ人間の中に存在している、あなたの内面で何が起きているのか教えてくれる?

 

・病気

障害 ただ生きること being

 

・時間性

未来を描けることは、すごく特権のあることだと思った。ちょうど就活の頃、就活の頃から、結婚や出産を考えて会社を決めたという2人の話を聞いて、衝撃を受けた。あなたはそんなに、未来を描けるのですね。私にとってはありえないような話だった。

社会学にプレカリティ(precarity)という用語がある。非正規雇用、

 

私は時々、刹那的だとか、今が楽しければいいじゃなくて後先考えてとか言われるけど、なんだろう。一定わかるけど、なんで未来を描きゃなきゃいけなくて、未来のことを考えて今を決めなきゃいけないんだろう?と思うことがある。明日死ぬかもしれないのに。明日死ぬかもしれないとか、この人にまた会えるかはわからないとか、そういう感覚がこの1年間ですごく強くなっている。

・明日死ぬと思って今日を生きる。永遠に生きると思って学び続ける。

という言葉が今の私の座右の銘。それを判断基準にしてるのも影響しているかも。

・メルボルンに来てから強くなった。どこの国、どこのコミュニティに行っても通じるものなんてほとんどない。できる/できない、価値がある/ない、何をしてきた/する予定、ということにあまり意味はなく、ただあなた自身が、あなたの好きなことをしていて、あなたがあなたらしく生きているか。あなた自身にとっての価値。あなた自身にとっての意味。あなたが今幸せなのか。

 

図式 (空間からも、時間からも 自由になった わたし を 生きていたい)

そんなこと不可能なんだけど、それにできるだけ近い わたし を 探し続けていたいのです

 

 

そうやって生きてもいいではないか、

ストレートな時間性や、特定の場所での社会的地位や価値に縛られず、

どこにもいない、どの時間にもいない、ありのままのわたしというものを

それはきっと存在というものがなくなってしまうかもしれないけど

それを目指す生き方が存在するということ、

クィアな時間性や、ケアの考え方は、それを支えられるのではないかということを

調べてみたいのです。

 

こう考えられるのは一種の強さなのかもしれない。こないだ、「ひかりさんが周りから不思議だと言われるのは、自分の哲学みたいなものがあったとき、それを貫き通す勇気を持っているからなんだろうなと思いました。」と言ってくれた人がいて、なんかすごい言語化された感じがした…。私はどうして変人キャラになるのか、上手く言語化できず

 

 

描けたらいいのに

10時に起きた。

こたろうが足元で寝ていた。

撫でながらゴロゴロして、こたろうが降りるタイミングで私も起きる。

 

コールミー・バイ・ノーネームを観た。

2人がベッドで寝てるシーンがどこか懐かしくて愛おしくて、何かに浸ってて、マイ・ワンナイト・ルールを観た。

何か忘れていたもの?すごい好きだった。

 

取り戻そうとして、外へ出る。

同じ道を通っても、もう3年以上経ってる。

過去に生きてる、過去は過去のまま確かにそこにあったってことが、寂しいような美しいような。

 

人は変わるし、諸行無常だけど、美しいものを見ていたい。

変わるからこそ美しいとしても、過去に思いを馳せることしかできない現在は、何なんだろう。

 

時々、過去に浸る時間がある。いつもは今に追われて未来を考えてるけど、たまーに、あの頃を思い出す。儚くて美しい、脆くて脆すぎる。思春期時代の感情を超えるそういうものって、これから先あるのかな。

 

いつまでも過去に浸っていられないけど、過去に浸る時間が結構好きだったりするし、

本来の自分という感じがして、誰とも話したくなくてただ書いて、街をぼーっと見てる。

 

うっとりする

この世界の、どこかにある小さなもの。

ここが現実じゃないような気がして

とある地方で、法事だった。

今回帰省するにあたって、親戚が集まるということで元から嫌な予感はしていた。たぶんどこかのタイミングで傷つくんだろうなと。

 

元々、私の両親の家は家柄や性質が全然違う。なぜその2人が結婚したんだってくらい。私は母方の家の方が好きだ。自由で、裕福ではないけど楽しくて、祖母は一人で海外に旅している。海外といっても西欧のみならず東南アジアにもいく。一方、父方の家は由緒正しくて歴史がある。裕福で、私は学費海外旅行費その他の面でその恩恵に預かっている。ただ、伝統芸能に従事していたせいか、考え方も相応に古い。「留学行くなら人様に良いところに行ったねと言われるような大学に行くべき」私がタイに行くと話した時も「なんで東南アジアなんか行くけ、ヨーロッパならお金出す」

 

こっちに来ると、やたら東大の話をされる。東大に入ったのはうちの家系であなたで2人目だ、〇〇は慶応から三菱に行ったんだ、××はあの会社のあの時期の部長だった、など、ぜーーんぶ肩書き。まじ一旦黙れ??どうでもいいんだよそんなことは。親戚の関係を聞いた時に肩書きだけ語られた時はどうしようかと思った。ちなみに、ちゃんと適当に答えてスルーするスキルは身に付けてるから真に受けてはいない。お坊さんと話していても感じたけれど、この人たちにとっての「東大」と、私にとっての東大は全く別物。そんな大したものじゃないんだよ。ただの、大学なんだよ。いつも通っている所。あなたが思う東大と、私にとっての東大は乖離している。

 

法事後の食事の席で、ある女性が「男はあっち(上座)」と言っていた。この家系の中ではリベラルだと思っていたから少しショック。法事の席も、私の母親より兄が前に座らされた。なんで?今回改めて、自分は女性なんだということ、女は公の場において地位が低いということを痛感した。最近意識してなかったけど、いくらでも男尊女卑は残ってる。

 

その席でされる会話も、肩書き重視の会話も、どこか別の世界のことのように思えた。自分の視界で起こっている事が現実じゃないような気がして、切り離されていた。

 

そして父方の家のお墓に行った。

十三回忌の曽祖母と関わりが薄かったこともあるが、お墓の前で考えていたのは、「ここに眠っている人達の中には、この環境で苦しんだ人がいるかもしれない」ということだった。このお寺は、昔は夏は涼しく風通しがよかったらしいが、涼しさと心地よさの中に潜む絶望や、風に乗せた切ない囁きがあったのかもしれない。

私と似ている人がいれば、というかこの家の価値観に染まれなければ、窮屈でしんどかったはず。私は、このお墓に入るのだろうか。それとも、この家から決別する日が来るのだろうか。将来の私はここの人たちに応援されるのだろうか。誰と生きてるんだろう、どこかに逃げているのか、まだ石川の家と関わっているのか。

 

最近、将来のことで悩む事が増えた。ドラマでも日常でもそこらへんに転がってる幸せ(?)を、私は同じ形では手にすることがないんだろうなーって。想像ができない。自分の希望する形で叶ったとしても、一筋縄じゃいかなくてきっといつか苦しむ。他の人のそういう将来設計を聞くたびに、羨ましいし切なくなる。あーなんで私はこうなんだろうって。

この話になるとネガティブで救いようのない孤独と絶望を感じる。この社会をどうしようもなくて、自分もどうしようもなくて、絶望だけ得意になっていく。

 

こういうことを話したダブルピンカーに言われた。

「あなたが体験してきたいろんな感情や想いが、今のあなたを輝かせていると思う。そして、そのあなたの輝きは人をも照らしていくと思う!!」

私はダブルピンカーの、自由に生きる姿勢や、人を信じて愛情を持って肯定する態度に救われた。絶望を、希望に変えて。

 

どんなに絶望しても、それでもこの現実は、この世界は美しいと教えてくれるもの。

それは私にとって、私が好きな人達や、羊文学のような音楽であり、芸術である。

いつか。

 

 

11階の寝室から、

金属の梯子に遮られつつ、外の空気に触れる。

オレンジ色の東京タワーを、風を受けながら眺める。

下を見る。

黒いコンクリートの地面に、色彩豊かな信号の光。

 

私は梯子を跨いで飛んだ。

夜空に飛び出し、夜の明るい街を飛び回った。

 

夏の夜の涼しげなトコロ・セカイ。

空を飛びたい。自由に羽を広げて。

本質

私「禅を始めたのは、情報が多いなかで、自分の時間を作りたかったからです」
老師「禅は、心を洗濯するもの。白紙にする。雑念の上に雑念を重ねるから溢れてしまうんだよ。白紙にして、冷静になって考えればよい。禅は特効薬ではないからこつこつ努めるのだよ。」
老師に対して「自分と他人を比べてしまい、周りの方がよく見える」
老師「隣の芝は青く見える。ごちゃごちゃしてるから、本当にそれがよいのかわからない。本質を見極めることが大事。まだ人生経験が浅い。冷静になって見極める。」

 

授業を受けた事のある法学部の有名な教授が坐禅の場にいた。話しかけて一緒に帰ることになった。学生時代から坐禅部にいたらしい。


先生に老師の相談を話したら、「たしかに、よく見えても内実は大変なことも多いかもしれないですよね。」と。
なるほど。私は、よい人はよいと老師は言っているのかと思ったが、そう解釈することも可能だ。本当は人間だから完璧なわけはなくて悩みがある。よく見えるという表面ではなく、その内実を見よということか。

(実際、私は「勉強もスポーツもスタイルもよくて完璧だね」みたいな言葉をかけられることがあるが、全然そんなことないよって内心思う。私の場合は「何でもできるけどでも変・抜けてる・不思議ちゃんなところがいい、だから親しめる」みたいによく言われた、どうも。私自身、褒め言葉であっても遠目でこそこそ言われるの嫌いなので。悩みもあるし、そのいろんなものを持ってることがマイナスに作用することもある。漫画でよくあるパターン。そういう表象される人って、心が許せる人が少なかったり、本当はもっと弱くて甘えたい人間がちだよなあと思う。)


私「先生は他人と比べてしまうことはありますか?」
先生「何か機会があると比べてしまいますよね。私は植物を育てるようになってからマシになったような気がします。植物は自分の時間で生きてますからね。ただ、天気や気温など自然環境には割と従属していますが。」
私「確かに、植物はそれぞれ成長スピード違いますもんね。」

もうひとつ老師にしたかったはずの質問「誰かを特別に思うと、嬉しいこともあるけど冷たい態度取られたら悲しくなり、感情の振れ幅が大きくなってしまう。」
先生「老師の、本質を見極めよという言葉から老師ならなんと答えるだろうかと連想していました。人間は完璧ではないから、よくないところもある。山みたいなものです。白い時もあれば、緑の時もあるし、紅葉もする。風が吹いている日もありますからね。」
私「人も機嫌だったり態度の差はあるけれど、その人の本質の部分を見ていればよいということですか。確かに。」

表現が欲しい

甘い部分もありながら急激に荒れ狂う展開、喜びや優美さに溢れるような旋律、苦しみや悲しみを突き抜けたところにある清澄な明るさ・・・

 

ショパンスケルツォを基調とした、大学のピアノ演奏会を聴きに行った。

ピアノの音を聞いているうちにそのメロディーに乗って自分の思考の世界が広がる。

こうやって情景の移り変わりや心情を表現できたら、どれだけ気持ちいいだろう。

 

私は表現したい複雑な感情は溜まっていくのにそれを表現する手段をあまり持っていない。自由に奏でられる・自分を表現できるような芸術が欲しい。

言葉でも表現はできるけど、私の語彙力だと色が見えない。この記事の一番はじめの文章は、今回ショパンの曲の解説から好きな表現を引っ張ってきたものだが、これを読んでいると様々な色が浮かんでくるし感情が揺さぶられる。

そんな文章を書いたり、そんな絵を描いたり、そんな音楽をやりたい。自分の得意なもので表現しようとしている人を応援したい。

 

私は、なにで表現する?

理不尽なことは社会にたくさんある。その時に、自分の言いたいこと・考えを言葉にして伝えることは重要。知識や経験がないとできないことはある。知識をつけるのは大事だけど、アウトプットするのも大事。

バックグラウンド・文化・ジェンダーセクシュアリティ・年齢が違う人に対しても伝えなきゃいけないかもしれない。

 

言葉が大事。他の言語、特に英語は身につけたい、私が生きるために。