本質

私「禅を始めたのは、情報が多いなかで、自分の時間を作りたかったからです」
老師「禅は、心を洗濯するもの。白紙にする。雑念の上に雑念を重ねるから溢れてしまうんだよ。白紙にして、冷静になって考えればよい。禅は特効薬ではないからこつこつ努めるのだよ。」
老師に対して「自分と他人を比べてしまい、周りの方がよく見える」
老師「隣の芝は青く見える。ごちゃごちゃしてるから、本当にそれがよいのかわからない。本質を見極めることが大事。まだ人生経験が浅い。冷静になって見極める。」

 

授業を受けた事のある教授が坐禅の場にいた。話しかけた。学生時代から坐禅部にいたらしい。


先生に老師の相談を話したら、「たしかに、よく見えても内実は大変なことも多いかもしれないですよね。」と。
なるほど。私は、よい人はよいと老師は言っているのかと思ったが、そう解釈することも可能だ。本当は人間だから完璧なわけはなくて悩みがある。よく見えるという表面ではなく、その内実を見よということか。
私「先生は他人と比べてしまうことはありますか?」
先生「何か機会があると比べてしまいますよね。私は植物を育てるようになってからマシになったような気がします。植物は自分の時間で生きてますからね。ただ、天気や気温など自然環境には割と従属していますが。」
私「確かに、植物はそれぞれ成長スピード違いますもんね。」

もうひとつ老師にしたかったはずの質問「誰かを特別に思うと、嬉しいこともあるけど冷たい態度取られたら悲しくなり、感情の振れ幅が大きくなってしまう。」
先生「老師の、本質を見極めよという言葉から老師ならなんと答えるだろうかと連想していました。人間は完璧ではないから、よくないところもある。山みたいなものです。白い時もあれば、緑の時もあるし、紅葉もする。風が吹いている日もありますからね。」
私「人も機嫌だったり態度の差はあるけれど、その人の本質の部分を見ていればよいということですか。確かに。」

表現が欲しい

甘い部分もありながら急激に荒れ狂う展開、喜びや優美さに溢れるような旋律、苦しみや悲しみを突き抜けたところにある清澄な明るさ・・・

 

ショパンスケルツォを基調とした、大学のピアノ演奏会を聴きに行った。

ピアノの音を聞いているうちにそのメロディーに乗って自分の思考の世界が広がる。

こうやって情景の移り変わりや心情を表現できたら、どれだけ気持ちいいだろう。

 

私は表現したい複雑な感情は溜まっていくのにそれを表現する手段をあまり持っていない。自由に奏でられる・自分を表現できるような芸術が欲しい。

言葉でも表現はできるけど、私の語彙力だと色が見えない。この記事の一番はじめの文章は、今回ショパンの曲の解説から好きな表現を引っ張ってきたものだが、これを読んでいると様々な色が浮かんでくるし感情が揺さぶられる。

そんな文章を書いたり、そんな絵を描いたり、そんな音楽をやりたい。自分の得意なもので表現しようとしている人を応援したい。

 

私は、なにで表現する?

理不尽なことは社会にたくさんある。その時に、自分の言いたいこと・考えを言葉にして伝えることは重要。知識や経験がないとできないことはある。知識をつけるのは大事だけど、アウトプットするのも大事。

バックグラウンド・文化・ジェンダーセクシュアリティ・年齢が違う人に対しても伝えなきゃいけないかもしれない。

 

言葉が大事。他の言語、特に英語は身につけたい、私が生きるために。

 

 

 

 

 

特性への名付け 

大勢がいる場所で自分の聞きたい声が聞き取れず、聞こえないまま会話が進んでいく。

生理的に無理で、頑張ろうと思っても優しくなれない。

狭い空間にいると、叫んで逃げ出したくなる。

 

今までも、驚かされて異常に驚嘆して逆に驚かれたり、怖いものが本当に無理だったり、自然がすごく好きだったり、すぐに涙が出たり、小さな事に幸せを見出せたり、相対的に人より考え事が多そうだったり、そういうことはあった。けれど、そんなに不自由していなかった。

 

生理的に無理なものは本当に無理。無理な相手に対しては、人間でも時に払い除けたい虫のように感じられてしまう。自分に向けられていない悪意まで感じ取って苦しくなる、その空間から逃げ出したくなる…最近、はじめに書いたようなことが多くて困っている。

 

自分の感覚を他の人にそれを相談したら親身になって聞いてくれたけれど、感覚がおかしいとも言われた。自分でもおかしいと思う。過剰すぎる。自分では過剰になりたくなくても過剰になってしまう。生きづらくしてると思うよ、その感覚が。

 

HSP(Highly Sensitive Person)という名称を知ったのは大学に入ってからだった。知った頃は、自分に当てはまる項目が多いなと思いつつも大して気に留めていなかった。でも自分と他の人たちの感覚の違いを強く体感する期間があり、昨日改めてネットにあるやつで検査してみたら、いくつかやった検査の全てでHSPであると思われるという結果が出た。まあそうだろうなという感じだった。

 

自分は、HSPという単語をどう扱えばいいだろうか。「HSPは障害ではなく特質を表す言葉にすぎない」、それはわかっている。名前をつけることがいいのか悪いのかは、大学に入ってからずっと考えてきたことだった。HSPとは別に、自分のアイデンティティに名前をつけるかつけないか、つけられるのが嫌かどうか。用語がないとそもそも問題を問題として当事者すら認識できなくなってしまい、その問題や排除を訴える術を無くしてしまうのは間違いない。だけど、〇〇の人たちは〜ってまとめられたり、一括りにされたり、何よりそれが「〇〇の問題」などと社会問題のように扱われることへの抵抗感は少なからずあった(社会問題は確かにあるんだけど、自分が社会から異物として対象化されているのことへの抵抗感)。まあ、まとめればアイデンティティ・ポリティクスのメリットデメリット、みたいなところの話だろう。

 

何かの性質を有徴化することで、それが「普通」でないと定義づけられること。これに対してどう向き合えばいいんだろう。自分が、俗に言うHSPに当てはまるのかもしれないと知った時に感じたことは?

他にもこういう人がいるんだ。ああ自分が今まで形もなくモヤモヤ感じてきた違和感は、こういうことだったんだ。(HSPの特徴を読んで)そうそう、そうなんだよ…と、自分はこれなんだ、と名づけることでホッとした部分がある。

一方で、ネットで「HSPの人は〜」という型の文章を何度も見かけて、いやHSPでくくるなよ主語デカすぎだろ、私はそうじゃない。と、括られることへの嫌悪感もあった。ASDHSPもグラデーションなんだから当たり前なんだけどさ。さらに、自分はHSPなんだと思うことで、自分はこういう性質を持って生まれてしまったから生きづらいんだ、これから生きるの大変だなあと悲観的にもなった。

 

自分の生きづらさの原因をいつも探している気がする。そのために学問をしようとしている。

私はそれは正しいと思っている。人間の生きづらさはその人に原因があるのではなく社会に原因があるなんてことは沢山あって、その社会を変えたいという思いはずっとあって、だから社会学に興味が出て…でも、例えば障害の社会モデルだって、社会が悪いねって言ったってじゃあ今当事者はどうすればいいんだよ絶対に所謂「健常者」と違う部分は内部にあるんだしってわけで、確かに医療モデルの側面も必要なわけで、、、そしたらICFモデルがいいのか社会モデルを発展させていくのがいいのか?社会的な概念を作るということは、よりアブノーマルで「変」な生き方をしている人を強烈に排除する事になるから、クリップやクィアだってアンチソーシャルから生まれた。だから社会学を学ぶことがクリップやクィアへの興味にどう働くのかまだわからないし不安な部分もあるけど、社会学を学ばないとアンチソーシャルなんでできないわけで。なんか進路の迷いに話が飛んでしまった。今回かなり殴り書きですね。

 

とりあえず私は、HSPという名称にとらわれないで、一旦自分から引き離して生活してみようと思う。感受性が豊かとか、想像力があるとか、いい部分もあるんだから、ただ自分の個性として考えてみたい。

 

 

 

赦しについて

「赦し」について、3人の思想家の考えをみてみよう。

 

ハンナ・アーレントのキーワードは「活動」である。

『人間の条件』において、人間の広い意味での活動には3つの層があるとした。労働、仕事、活動。活動こそ本来の人間的活動であり、その典型は政治である。

その活動には二つの不可避な欠点がある。活動の結果は無かったことにできないという不可逆性と、活動の結果を予測することはできないという不可予言性である。不可逆性の救済策が「赦し」であり、不可予言性の救済策が「約束」だ。アーレント曰く、赦しと罰は、報復の応酬を止めるという点で同じ(罰は赦しの代替物)であり、復讐の概念と対立する。アーレントは、イエスに関しても宗教的な面ではなく、世俗的視点で注目した。イエスのいう自由は、復讐からの自由であると。人間の活動において罪は日常的な出来事であり、赦しという行為があるからこそ人間は生活できるため、赦しの義務があるとした。

アーレントは、『全体主義の起源』の中で政治が無用なものとなったときに全体主義が生じるとし、人間の活動を無力にする、赦すことができない罪だとした。ナチスホロコーストは人間の理解の範疇を超えており、それゆえに人間は赦すことができない。

しかしアーレントは、アイヒマンの裁判については罰を正当化しており、そこに矛盾があるように思われる。

また、アーレントは赦し得ないものはどこまでも赦し得ないとし、その点においてデリダから「赦すという恋がトートロジー以上の意味を持っていない」と批判されるのだが、それは後述する。

 

次にウラジミール・ジャンケレヴィッチをみてみる。彼は、忘却と赦しの類似点を説いた。忘却が生じるのは軽薄な心のせいだといい、時効は忘却を法的・公的に規範化・正当化させるとした。彼はドイツの時効論争の際、時効に反対した。記憶の義務があり、起こったことを強く感じてルサンチマンを持つことが起こったことへの誠実な態度なのだと。

ジャンケレヴィッチは、赦しの全能性を唱えた。アーレントのいうinexcusableなものも、forgiveできる。罪の動機が理解できなくとも、それを赦すのがforgivenessなのだと。彼は、許しえないものinexcusableはあるが、赦しえないものunforgivableはないとした。赦しがたい悪を赦してこそ真の赦しだ。ただし、最低限の条件がある。

それは、加害者が赦しを乞うていることである。『われわれは赦しを乞う声を聞いたか』の中で彼は、悲嘆とみなされた状態が赦しが可能になる存在で、豊かな人を赦すなんて悪い冗談である、としている。また、第三者には赦す権利はない。ホロコーストにおいては、死者はもう赦すことができないのでホロコーストに赦しはない、つまり「死の収容所で赦しは死んだ。」のである。

 

最後に、ジャック・デリダへいこう。デリダのキーワードは「シークレット」。

デリダは、赦しはただ赦しえないもののみを赦すと考えた。赦しは、それが不可能に思われるとき初めて可能になり、「赦しの歴史は反対に、赦しえないものとともに始まる」。彼は、手段ではなくそれ自体としての赦しに注目した。ジャンケレヴィッチが言うような条件付きの赦しではなく、純粋で無条件の赦しを。国際平和のためといったエコロジー的な商取引ではない。仮言的用法ではなく、定言的用法としての赦しを。無条件の赦しは「不可能なものの狂気」でありわたしたちの赦す能力を超えていて、実際に現前することはありえず、それが現前するためには何らかの条件が否応なくついてきてしまう。しかし条件付きの赦しは、それら全てが純粋で無条件的な赦しの概念に準拠していることは決して忘れてはならない。その意味で、条件付きの赦しと無条件の赦しは分離不可であり、全く異質なものなのである。

ここで、赦しえないものを赦すのが赦しなら、赦しえないものは存在しないのではないかと言う意見が出るだろうが、デリダ曰く、そこでの赦しは「秘密」「シークレット」にとどまる。あくまでも赦しは異常である。正常化のためであってはならない、正常であってはならないのだ。

無条件の赦しは、人間の行為としての赦しではありえない。しかし、イムマヌエル、god with usにおいては…人は自分で生まれたわけじゃない。気づいた時に存在し始めており、生き延びている事実が肯定されている・容認されている。生かされていて、そこに根本的な受動性がある。ヒトラーでさえも、生きている限り、無条件の赦しで神によって生かされているのだと。

 

 

以上、3人の「赦し」についての思想を見てきた上で、私自身の考えをまとめてみたい。いやそんな時間は今ないからただただつらつらとかく。

・第三者は許せない。神であっても。

私は今まで、赦しとは忘却と似ていると思っていた。赦すことで、無かったことにしようという感覚。でも、無かったことになんてできない。赦すとは、誰が、何を、赦すのか?という問いに対しては、被害者が、加害者のために加害行為を赦すことである。本当にそうなのか?赦しがキリスト教的なものと結びついている感覚。第三者は許せないと思う、神であっても。まだ自分が赦していない段階で神が加害者を赦していた時、自分は取り残されてしまう。私はアーレントの意見に近いと思う。理解・共感できないために赦せないという感覚。アーレントに対して、「むしろ理解・共感できないからこそ許しが必要なのではないか」という意見があるだろうが、そこまでして赦すべきなのだろうか、赦しは必要なのだろうかと疑問に感じる。

ただ、やはり赦すとは、楽になることでもあると部分的には思う。赦すことで、自分なりに自分の苦しみに区切りをつけられる気がする、前を向ける気がする。赦すという行為は、誰のためにあるのだろうか。

てことで私はテストを受けにいかないといけないので、ここで締めます。

映画『怪物』を観て

人と人との会話や日常生活は、仮説があって成り立っているけれど、仮説を立てないと何も言えないけれど。

それが仮説でしかなくて、自分に見えていないことが絶対にあるということを頭に入れておかないと、怪物を勝手に作り出したり自分自身が怪物になってしまう。

一レーン目で私は母にめちゃくちゃ感情移入してしまった。浅かった。もう一度見たい。

 

(感想少ないけどこれくらいの方が続けやすいや)

赦し

優生保護法のもと、生殖機能を取られた北さんが仰った。

「国よ、謝ってください。無念の思いで生きたくありません。謝ってください!!」

 

謝るという行為には、2つの意味が含まれていると思う。1つは、自らのあやまちを認めること。もうひとつは、赦しを請うこと。

勿論、常に両方含むわけではなく一方のこともあるだろう。

 

ジャンケレヴィッチの著作に『われわれは許しを請う声を聞いたか』がある。自分の子どもを殺した犯人に対して、相手も反省して苦しい生活を送っているだろうから赦そうと思っていたが、会ってみると弁護士として成功し立派な人として敬われていることを知り、赦せなくなったという話である。

一般に私達は赦すとき、相手が赦しを請うていることが重要になる。

 

北さんが「謝ってください」と言ったのは、相手が過ちを認めることよりも、相手が赦しを請うことで自分が赦し、その上で生きたいという事ではないか?

 

ただ、謝る時に、赦されるつもりはないという人がいれば、謝ったら赦されるから謝らない、という人もいる。

 

恋愛って

恋愛って会ってる時じゃなくて会ってない時に勝手に膨らませるものなんじゃないか

 

会ってる時に好きだと思う人と、会わない時に会いたくなる人好きだと思う人、どっちが好きなんだろう